脳内百景

3ピースロックバンド"The Highways"のギターボーカル、徳永の脳内。

レコーディング

長いゴールデンウィークが終わる。

まあ自分にとっては休みがあるわけでなく、特に関係はなかったと言える。

とはいえ街の空気は休日の気配を孕んでいるし、人々の足取りは穏やかに見えたりする。気温も相まってなんとも生ぬるい感覚はした。この期間で多くの人がリフレッシュして、また世間に活気が溢れ出してゆけば素晴らしいことだと思う。

 

 

 

僕のゴールデンウィークはどうだったかといえばレコーディングについて話さないわけにはいかない。

2日間使い3曲を録音した。まだミックスやマスタリングが残っているため完成とはいかないが、録音するという仕事は終えたのでひと段落だ。

今回は以前マスタリングでお世話になった大ベテランの方(後日発表させて頂きます)に録音、ミックス、マスタリング全てを担当していただいたのだが、もう沢山のことを勉強させていただいた。

何より1番自分が痛感したことというのは、音作り、アレンジの世界の広さだった。

自分ではこれまでだって自由に考えているつもりだった。しかし実はそれはとっても範囲の狭い自由で、視界に収まる世界の外に見えていない自由が広大に広がっていることに気がついたのだ。

もちろん気がついただけでその自由をうまく使いこなすにはこれまでと同じように遅かれ早かれ時間がかかる。ただそれに気が付かせて頂いただけで、自分にとって本当に意味のあるレコーディングになったことに間違いはない。

 そして素晴らしい音源になることも間違いないのだが。

 

どんな音がするのか、どんな音が出るのか、自分で触って体験して初めてわかることばかりだ。(それは音楽に限ったことではない)そんな当たり前のようなことにも改めて気がついた気がした。

誰かの脳みそに爪痕を残すということはただかっこよければいいわけじゃないし、整ってりゃいいわけでもない。もちろんただぐちゃぐちゃにすればいいわけでもない。

自分だけのやり方を見つけて、行動し続けることが誰かの人生に爪痕を残す1番の近道だろうと思う。

 

 

 

 

 

脳みそが七色に輝き、トロピカルなお花が咲いている。そんなカラフルで柔軟な頭の中のイメージでアレンジできたらいいななんて考えた。もちろん合法的に、自力だけで。

(ただし酒は呑む)

いずれ発表ができると思う。それまでお楽しみに。

季節の流れを感じていたい

 

人間は、いや、少なくとも僕は同じような環境や状況が続き過ぎると自分が変化せず、成長していない気がして気分が荒れてくる。それを避けるためには何処かで必ず新しい挑戦を、若しくは新しい要素を生活に取り入れねばならない。別に大きすぎなくてもよい。衣服を買うだけでも、普段行かない場所に行くだけでもよい。ただ、何か新しいものがなければならない。

その点で季節によって気候が変わり、自然が変化して、行事があることは非常に自分にとって適切だし大切だと考えている。

季節を味わう事を愉しみたいと考えている。

 

今なら桜が咲いて、花見に行く事は素晴らしい。桜の花を見る度、綺麗事でなく新しい風が吹いているのを感じる(僕は綺麗事はあまり好きではない)。

街が新しい活気にあふれていて、何かが始まる感じがする。これは暖かい気候のせいだろうか、上京してきたばかりの若人のパワーが街に漏れだすからだろうか、店が用意したセールの力だろうか、どこからか流れてくる希望の空気を鼻から吸い込むからだろうか、深呼吸をしたからだろうか、珈琲を飲んだからだろうか、それとも上記全てが合わさったからだろうか。

全てが合わさったからともいえるし、たった一つの事象によるものだとも言える。ただなんにせよ多くの人がこの季節独特の空気を感じとっているに違いない。

 

夏になれば海に行く。夏休みがある。かんかん照りの日に「暑いですね。」といいながら働いたり、出掛けたりする。

 

秋になれば紅葉を観る。柿を食べる。「寒くなってきましたね。」と挨拶する。どこか切ない気持ちになる。空が高いと感じる。

 

冬になれば一年を振り返る。雪が降れば面倒だと思いながらもウキウキする。初詣に行く。「今年もよろしく!」と挨拶をする。

 

 

世の中上手くできている。季節があるから飽きずになんとか生きられるのかもしれない。

毎日小さな変化を胸に新しい世界を見つめたい。

1970〜1980年代への想い

前々からなんとなく気がついていたのだが、僕が好きなものには70年代〜80年代に創られたものが多い。

アニメや映画、音楽に至るまで、気がつけばその辺りの年代に好みの作品が集中しているようだ。それ以前のものや新しいものにも心を打つ作品はもちろんあるのだが、割合が特に多い。

 

非常に個人的な話だが最近映画や特撮に興味があって、詳しい人にゴジラのDVDをいくつか借りていた(既にDVDを借りることは前時代的なのだろうか)のだが、特に気に入ったものは「ゴジラ対メカゴジラ」だった。これは1974年に東宝が製作している。

メカゴジラの登場シーンは非常にカッコよく、ワクワクするので必見だ。炎に包まれたメカゴジラが姿を現したと同時に流れ出す音楽はそれは素晴らしい‥。

まあメカゴジラの話は置いておくにしても、この時また(70年代だ‥)と思ったのだ。

 

 

こうなってくると年代をかなり意識し始めてしまい、ゴジラのような長く続いているシリーズだと作品が70年代に差し掛かってくる時に(70年代がきたぞ‥)とか無駄なことを考えてしまう。

もちろん自分の好きなものを探す時の指標になるといえばそうなのだが、本当は前知識なくして衝撃を受け取って判断することが1番かと思う。まあ今の時代情報がクロスオーバーしすぎてそんなことは不可能に近いが。

 

自分なりに何故その年代が好きなのか考察してみる。

恐らく現代の文化のアイデアの種を蒔く期間が終わり、その枝葉や実が熟れ始めていったのが70年代頃からで、多種多様で実験的な作品が多くなっていったのではないだろうか。特に日本で言えば戦後の復興から近代の日本独自の文化が花開き始めたのがその頃なのかもしれない(あまり歴史に詳しく無いため信憑性は求めないでほしい)。 

基盤はできているがまだ未知のことが沢山あって、失敗もあるけど無限に枝分かれできたのだろう。だから沢山の突拍子も無いアイデアが生まれたり、今でいえば辻褄があっていなくて叩かれてしまうような作品も世に出せた、それが結果的にすごく刺激的で好きなんだと思う。

そしてもう一つ非常に大事な事は創り手の情熱が伝わってくることだと思う。自分たちがワクワクする、感動すると思うもの創り上げたい、誰も見たことが無いものを世の中に発表したい。そんな想いが作品を通して伝わってくる。絶対に忘れてはいけない気持ちだ。

 

 

 ただはっきりと言いたいのは現在も素晴らしい作品は創り続けられているということだ。人間が在る限りそれは続いていくだろうし、続いてほしい。そしてそんな素晴らしいものを創っている人が認められる世の中になって欲しいと願うばかりだ。

自分も作品を創る人間の端くれとして、その誇りと情熱を持ち続けていたいと思うのだ。

ミロコマチコさんの絵について

今回はミロコマチコさんという画家、絵本作家について話したい。

 

僕がミロコさんの絵を初めて真正面から体験したのは、去年の春くらいだと思う。世田谷文学館という施設で企画展があり、それを観に行ったのだ。

以前から家がそう遠くない事もあり、世田谷文学館には気になる展示があれば通っていた。その時もチラシをみて "おもしろそうだな "と思い、いつもの通り何の気なしにフラッと立ち寄ったのだ。

 

そこで絵をみてまあ驚いた、というか感動した。視線が絵に釘付けになって、動けなくなった。絵から何かパワーが出てきているかのようでただただ圧倒されたのだ。

はっきりいってこれは実際に観てみないと分からない。あらゆるものは自分で体験しないと本当の良さは分からない。

 

僕が一番圧倒された絵は、壁一面にデカデカと飾られていたヘラジカの絵だ。

基本的に何でもデカイものはまず他の情報を抜きにしても単に大きさという項目において圧倒される。ナイアガラの滝とか樹齢が長い大木のような自然がつくる大きさもあるが、日本各地にある名城とか、大仏、超高層ビルのような人工物でも同じだ。規格外の大きさになると人知を超えたなにかを感じてしまうからだろうか。

恐らく皆さんが想像している数倍、ヘラジカの絵はデカイ。大きな枠いっぱいに力強い線で描かれたその動物を観た時、" なんだこれは‥"という言葉が口から思わず漏れでるようなすさまじさを持った絵だった。自然の大きさがそのまま押し寄せて来る畏れもあった。

 

ミロコさんの絵は動物や生き物を扱ったものが多い。もちろんかわいい部分もあるけれど、僕はそれと同居する凄みや不可思議さに魅力を覚える。未知の遺跡で見つけた壁画のような神秘が隠れていると思う。

 

 

 

 

もちろん帰りに画集や絵本を買った。絵を観たその時の気持ちを忘れたくなかったからだ。

きっと自分が知らないだけで世の中には心を打つ作品を創る人がたくさん隠れているのだろう。そう信じたい。この記事を読んだ人は是非一度ミロコさんの絵を観て欲しいものだ。

2018年、総括。

年の瀬も年の瀬だ。

今外にいる。昨日よりは寒さが和らいでいるような気がする。風がない分空気をしっかり感じられる。締まっているけど、どこか温もりを感じる。家の中の、年末年始特有の温もりある雰囲気が、外に漏れ出しているのかもしれない。

 

2018年は僕にとって良い年だった。これは胸を張って言える。8月にドラムの山田が脱退し、The Highwaysが僕とだいきの2人になった。周りから見たらどうか分からないが、その時僕の心は不安を感じていなかった。

何故なら自分のやるべき事を自分がきちんとこなしていたからだ。そしてなんとなく、The Highwaysに自信と可能性を感じていたからだ。

アコースティック編成で、だいきと2人で丸4ヶ月ライブをこなしてきた。バンド編成では分からないことが沢山見えてきて、本当に良い修行期間であった。

 

今まで幾度もメンバーチェンジがあり、訳もわからずもがいた事もあった。自分にしたら長い期間(まだまだ人生においてはひよっこだが)を経て今僕は自分の表現ができている。嬉しく思う。

ただこのままでは気が収まらない。満足もしない。もっと自分の音楽を届けたい。更におもしろい、良い音楽をつくりたい。

それには当然みなさんの応援が不可欠なのだ。良い音楽をやることを、The Highwaysは約束する。だからその代わりと言ってはなんだが、是非応援をして頂きたい。2019年はThe Highwaysが高く舞い上がるだろう。

 

見届けて欲しい。よろしくお願い致します。

珈琲と僕

珈琲は僕にとって生活必需品と言っても過言ではない程、日常生活にあって当たり前の物になっているかもしれない。

朝起きて出掛ける前(だが大抵出掛ける直前に目を覚ますため、優雅なコーヒータイムは夢と消える)、移動の合間、余暇の時間、ライブ前、眠る前、様々な状況下を珈琲と共に過ごしている。

珈琲を飲む時間を作る事の最大の利点は精神を安定させる事にある気がする。あの香ばしい香りとやさしい苦味が心をリラックスさせる。次の行動を起こすためのスイッチにもなったりする。

 

 

思い返せば珈琲を飲んでいた1番古い記憶は中学生くらいに遡る気がする。朝学校に行く前に、インスタントコーヒーを親が淹れてくれていた。

当時は自分の意思ではない、出されたものをなんとなく飲んでいただけだと思う。

それが今や生活に欠かせないものになっている。習慣というのは怖いものだ。こうして立派な珈琲中毒患者ができあがったのだ。

 

 

なんにせよ珈琲が好きなのだ。いや、もはや好きとかでは片付けられないかもしれない。長年付き合った男女のように、当たり前すぎて大切さを忘れているかもしれない。

何事も当たり前になりすぎるのは良くない。最近また喫茶店に通う機会も増えてきたので、改めて珈琲の好きなトコロを10個くらい挙げてみても良いのかもしれない。この場を借りてお礼も言っておこう。いつもありがとう、珈琲さん。

世の中は曖昧な謎だらけ

寒さが増してきて、季節が秋から冬へと変わろうとしている。

季節の変り目には風邪を引きやすいとよく言う。自分もこの文句はよく使うし、最近も誰かとそんな話をしたばかりのような気がする。ただよく考えると何故季節の変わり目だから風邪をひきやすいかを完璧に説明するのは意外と難しい。

 

こういう、なんとなく使っている言葉やものは世の中に沢山ある気がする。世の中は小さな謎で満ち溢れているんじゃないか。

もちろんそういう言葉を使う事をやめたほうが良いなんて思わない。いちいちそこまで頭を回転させていたら疲れてしまうし、大抵こう言う類の言葉を使っているときは大した意味は含まれていない事が多い。会話を円滑に進めるための潤滑油みたいなものだったりする。

 

ただ僕はそういうなんとなくが増えすぎてしまう事は少し怖い事だと思う。

 

なんとなく蔓延る謎に疑問を持つ事を忘れると、自分というものが薄れていく気がする。

 

人々の意見や、物事に対しての見解は、白か黒の2択ではない。その間に無限のグラデーションが広がっていて、無限の答えがあるものだ。その無限の中のたった一つが自分の答えなのだ。

 

最近はSNSで簡単に他人や自分の考えをシェアできる。たくさんの共感を得る意見や言葉が確かにある。ただ僕はどうしても共感した他人の考えをシェアしている人々が、1から100までその考えに同意しているとは到底思えない。リツイートの数やいいねの数に流されて、なんとなく意見を決定してしまって自分の本当の答えを見失っている人も多い気がする。

僕は自分だけの言葉で喋りたい。他人の言葉をまとって、自分の心がわからなくなりたくはない。

 

 

自分にとっての世の中の曖昧な謎を増やしすぎたくない。いつも当たり前を疑っていたい。疲れない程度に。