脳内百景

3ピースロックバンド"The Highways"のギターボーカル、徳永の脳内。

本:豊饒の海-春の雪-

この本は、三島由紀夫が人生の終わりに書き残した長編小説、全4巻のうちの第1巻だ。

 

 

この話は、松枝清顕と聡子の恋愛が中心であるが、決して美しい恋愛話とは言えない。

美しい点があるとすれば、若くて世間をしらず、利己的な、清顕の命のエネルギーの燃焼により放たれる生命の輝きだろう。

 

はっきりいって清顕は自分の事しか考えていない。聡子を愛する気持ちも、自分のいわば理想に使われているだけだ。

これをみて美しい恋愛だなどといっている人は、頭がお花畑すぎる気がする。

実際清顕の利己的行動により、聡子は心を殺され、出家をする。

この出家は家への罪の意識、清顕への想い、様々な重圧に耐えられなくなった聡子が生きていけるために残された、最後の道ではなかったか。

つまり死を選ばないための選択であると思う。

 


清顕は自分の理想のため、さも美しく見える生命の輝きを放ち死んでいった。

ただここで言いたいのは、死をもってして放つ生命の輝きは、これほど愚かでも美しく見えてしまうという事だ。

美しく見えてしまっている時点で、我々は清顕の生き方にまんまと魅せられてしまっているのかもしれない。

その生き方が間違っていたと断言できる権利は誰にもない。

日常短編シリーズ:変わり目

これはフィクションであり、ノンフィクションの話でもある。

 

 

 

黒い革靴の表面を車のライトが滑り抜けてゆく。

既に日は完全に落ちていて、街灯や信号の光が闇に浮き上がっている。

 

 

 

少し肌寒い。半袖のTシャツで出てきた事を間違っていたとは思わない。昼間は確かにTシャツで丁度良い気温だった。何か羽織ろうか考えたが、まだ早い感じがした。

それに久々に押し入れから出してみた薄いジーンズ生地の上着は少し埃っぽかった。クリーニングに出すべきだろうか。

 

ある日から急に気温は高度を下げ、ほんの数日前まで怒肩で歩いていた夏はどこかに身を潜めてしまったかのようだった。

 

 

 

僕は横断歩道を渡るため、信号が変わるのを待っている。

僕以外に信号が変わるのを待つ人は誰一人としていない。車が行き交い、横断歩道を渡った少し先に歩道橋の見える大きな交差点。さして特徴のない街路樹がなんの感情もなしに佇んでいる。

何故だか心が寂しい気がする。人の心は簡単に気候に弄ばれる。

秋がやってきている事を僕は感じているようだった。

体験は脳みそのシワに刻まれる

 

現在の世の中は、音楽だけでなく、映画等も含めてサブスクリプションが当たり前となりつつある。

システムとしては本当に便利で、さほど高くない定額を払えば観たいもの、聴きたいものを短時間で探し出し、おもしろくなければすぐに切り上げることができる。

僕たちが使える時間は限られていて(生きている時間には限りがあるので)、その限られた時間を有効に使うという意味では非常に意義があるといえる。しかし、その中で得るものもあれば失うものもある。

 

 

最近レコードプレーヤーを買い換えたため、レコードを聴く機会が自然と増えた。

僕はそれほど沢山コレクションをしているわけではないが、レコードを聴くのが好きだ。

 

レコードが並べられている棚から今聴きたい一枚を探し出し、バンドやアーティストの個性が打ち出された大きなジャケットの中から、電灯が反射した黒光りする円盤を取り出し、ターンテーブルの上に乗せて針を落とす。この間にサブスクでいったいどれだけの音源を探しだし、聴いては切り上げてを繰り返すことができるのだろう。

しかし聴くまでに時間がかかるからと言って、果たして時間を無駄にしていると言えるのだろうか。僕にはそうは思えないのだ。

 

体験をすると記憶に残る。その時間を使った体験は、自分だけの経験となって、脳みそのシワに刻まれる。

レコードを聴くためにする体験は、数多の人がしている音楽を聴くという経験を、この世で自分だけしかしていないかけがえのない、ドラマチックな経験に引き上げてしまう力があるのかもしれない。

 

少したいそうな言い方をしたが、これは音楽を聴く事だけではなく、他の様々なことにおいても同様に考える事ができるだろう。

テレビの旅行番組で見た世界の絶景より、実際に行った近所のスーパーで今夜の晩ご飯を選んだという体験のほうが、後の人生にとって余程有益かもしれない。

 

 

ただここまで書いておいてなんだが、僕はサブスクを否定しているわけではない。実際に便利だし、自分もよく使っているのだから。

やはり大事なのは、選択肢の中から自分に適した方法を良い塩梅で選びとる事なのだと思う。

 

 

 

一見無駄に見えるなんでもない体験は、後の自分の立派な礎の一部になるかもしれない。

だから無駄でどうでもいい体験は積極的にやるべきだ。いや、他人から見たらどう考えても無駄な事でも、自分にとって必要ならやるべきだと言った方がいいのだろうか。しかし、なんてこと言ってるから時間がいくらあっても足りない。

無駄な事こそ謳歌したい、今日この頃なのだ。

映画:ゴジラ対ヘドラ

1971年公開、ゴジラシリーズ第11作目。

 

当時問題となっていた大気汚染や水質汚染を取り上げたゴジラ作品。

汚染により発生したヘドロの中から生まれた怪獣としてヘドラが描かれる。

ヘドラのデザインは奇妙で不気味。成長により姿が変化する上、飛行形態から歩行形態に変身もするのでバリエーションが豊か。興味を引くインパクトのあるデザインで、個人的には好きだ。

映画の中にはアニメが挿入されたり、目がチカチカするようなエフェクトが入っていたり、かなり工夫しようとした跡が見られる。その気持ちは評価したいが、B級映画感が増してしまい、いわばサブカル感が出てしまっている気もする。まとまりがないとも言えるのか。(元々多くのゴジラ作品はB級感を楽しむもののような気はするが。)

 

低予算だったようだが、ゴジラヘドラの戦闘シーンは楽しく見れた。ヘドラゴジラを自らの体から排出したヘドロで生き埋めにしようとするシーンは好きだったな。ヘドロの出てき方がよかった。

 

ただ物語の終盤で自らの熱線を使い、ゴジラが飛ぶシーンがあるのだが、これはどうなんだろう。

wikipedia等を見ると、制作当時は内部からも批判があったと書いてあったが、その意味はよくわかる。正直飛ぶのは唐突すぎて、無理やり入れたようにしか見えない。インパクトが欲しかった、またはアイデアをとにかく詰め込みたかったのだろうけど、それが透けて見えてしまって少し興ざめした。というか笑ってしまった。

 

全体を通して雰囲気は暗め。ヘドラが発生させる硫酸ミストによって市民が溶けてしまい骨になる描写など多少残酷な部分をはっきり描いているところは評価できるが、サイケデリックな雰囲気を出そうとすることでセンセーショナルな印象を与えたいという気持ちが透けて見えてしまう感じは否めない。

 

とにかくヘドラのデザインは評価できる。フィギュアが欲しくなった。

日常短編シリーズ:隣のあんちゅわん

これはフィクションであり、ノンフィクションの話でもある。

 

 

新型ウィルスの感染拡大の影響により、家にいる事が多くなった。

僕がしている仕事は自粛の対象ではないため出勤は以前とさほど変わらずしているが、バンドの練習やライブができないためその分時間が空く。

こうなってみるとそれだけでも相当自由な時間が現れてくる事がわかった。家にいる事が多くなると今まであまり意識する必要がなかった問題も浮上してくる。隣の部屋の生活音が意外と気になるのだ。

 

 

別に小さな音まで全部聞こえるわけではない。僕が1番気になるのはたまに聴こえるテレビの音で、その時かなりの確率で鳴り響いてくるのが福山雅治のライブ映像らしき音なのだ。恐らく壁にひっつけてテレビを設置しているのかもしれないが、そこそこの音量であの癖のある歌声が聴こえてくる。

 

僕は別に福山雅治が好きでも嫌いでもない。でもここまで聞こえるといくらたまにでもちょっときつい。ただそれだけでなく、なぜか笑えてしまう。

実は隣からたまに福山雅治が聞こえる事は以前からあって、聴こえてくるたびに(またか‥)と考えていた。

初めて福山雅治が隣から聞こえてきたのはたしか何年も前であるため、きっと隣人は生粋のましゃファンであり、ましゃロスを乗り越えた強者である事も確かだろう。(ちなみに隣人の性別は男性のようだが。)

何かを真っ直ぐに愛する事は素敵な事だし、一向に構わないが、誰かに迷惑をかけてしまった時点で全く素敵ではなくなる。隣人にまで愛を漏らさないでほしい。

 

この際福山雅治の曲を聞こえるように弾き語ったらどうなるのだろう。正直どうなるか興味があるが想像に留めておく。

 

外出自粛が長引きそうな事を考えると、隣のあんちゅわんとの戦いはまだ始まったばかりなのかもしれない。

 

尊敬と崇拝

尊敬と崇拝は全く別物だ。

僕は尊敬の念を抱くことはあるが、崇拝については永劫することはないだろう。

 

 

 

神様のように崇める存在(人間)は僕にとって存在しない。なぜなら心の中に「所詮人間は人間なのだから」という思いが常に存在しているからだ。

これはネガティブな意味で述べているわけではなく、ただ人間はその人間という範囲内で存在していて、大きな目で見ればあまりみんな変わらないという意味で述べている。そして大した存在でもないという意味も含んでいるかもしれない。

 

人間が存在している意味は何かと言われればそんなものはないと答える。しかし、どう足掻いてもないからこそ、汚くて美しい命を大切にして精一杯生きて足掻きまくる事が大切なのだ。

 

もちろん崇拝をする事が間違っているとは言わない。例えばお守りのようにその対象を胸に抱き続け、何かを成し遂げるのもいいだろう。ただ自分は自分で答えを見つけたい。間違っていても自分でつかんだものは何にも変えがたいものだと考えるからだ。

 

自分だけしか知らないものは価値がある。それは何かといえば自分として生きてきた時間を使って重ねてきた経験だ。

自分だけの経験をもとに答えを導き出せた時、それはどんなに先人の考えに似通っていようとも、たった一つの答えになるはずだ。

 

 

 

だから僕は崇拝しない。尊敬できることを探して、自分に必要ならばそれを取り入れていくだけなのだ。

泥だらけの坑夫

いつの間にか前の記事を書いてから時間が空いてしまった。現在、世間は殺伐としていて、鬱屈している。これ以上事態が悪くならない事を願いつつ、自分は気にしすぎずいつもの生活を続けていこう。(もちろん予防はしっかりする)

 

さて、最近の僕と言えば曲作りによく励んでいる。

以前は一月一曲程度が関の山だったが、去年の11月くらいからは月約4曲くらいのペースで曲を創ってきた。意外とやろうと思えばできるもので、ストックが増えてゆくのは満足感がある。

しかしながら自分の中から何か出せば、自分の中から何かが消耗されるのは確かだ。ガソリンを使って車が走るように、燃料が必要なのだ。

創作にとっての燃料は、自分の生活、その全てだ。

 

音楽を聴く事、映画を観る事は当たり前にそうだが、食べたり出かけたり、人と話したり、面倒な仕事をしたりする事も全てが燃料となる。

ただよいものを創るには良質な燃料が不可欠だ。良質な燃料は常に新鮮な体験や感情を求めていなければ手に入らないように思う。

 

今の僕は良質な燃料を求めて土を掘る泥だらけの坑夫のようだ。ただただ過酷なわけではなく、楽しい事が沢山ある労働だが。

その上人間は記憶ができるので、使った燃料も廃棄物になることなく自分の礎としてどっしり残ってくれる。自分の好きな物が増えていって本当にウキウキする。

 

今の自分には想像もできないものが生まれる事を夢見つつ、今日もせっせと土を掘るのだ。

どんなに掘り続けたって足りないくらいなのだから。