脳内百景

3ピースロックバンド"The Highways"のギターボーカル、徳永の脳内。

映画:ゴジラ対ヘドラ

1971年公開、ゴジラシリーズ第11作目。

 

当時問題となっていた大気汚染や水質汚染を取り上げたゴジラ作品。

汚染により発生したヘドロの中から生まれた怪獣としてヘドラが描かれる。

ヘドラのデザインは奇妙で不気味。成長により姿が変化する上、飛行形態から歩行形態に変身もするのでバリエーションが豊か。興味を引くインパクトのあるデザインで、個人的には好きだ。

映画の中にはアニメが挿入されたり、目がチカチカするようなエフェクトが入っていたり、かなり工夫しようとした跡が見られる。その気持ちは評価したいが、B級映画感が増してしまい、いわばサブカル感が出てしまっている気もする。まとまりがないとも言えるのか。(元々多くのゴジラ作品はB級感を楽しむもののような気はするが。)

 

低予算だったようだが、ゴジラヘドラの戦闘シーンは楽しく見れた。ヘドラゴジラを自らの体から排出したヘドロで生き埋めにしようとするシーンは好きだったな。ヘドロの出てき方がよかった。

 

ただ物語の終盤で自らの熱線を使い、ゴジラが飛ぶシーンがあるのだが、これはどうなんだろう。

wikipedia等を見ると、制作当時は内部からも批判があったと書いてあったが、その意味はよくわかる。正直飛ぶのは唐突すぎて、無理やり入れたようにしか見えない。インパクトが欲しかった、またはアイデアをとにかく詰め込みたかったのだろうけど、それが透けて見えてしまって少し興ざめした。というか笑ってしまった。

 

全体を通して雰囲気は暗め。ヘドラが発生させる硫酸ミストによって市民が溶けてしまい骨になる描写など多少残酷な部分をはっきり描いているところは評価できるが、サイケデリックな雰囲気を出そうとすることでセンセーショナルな印象を与えたいという気持ちが透けて見えてしまう感じは否めない。

 

とにかくヘドラのデザインは評価できる。フィギュアが欲しくなった。

日常短編シリーズ:隣のあんちゅわん

これはフィクションであり、ノンフィクションの話でもある。

 

 

新型ウィルスの感染拡大の影響により、家にいる事が多くなった。

僕がしている仕事は自粛の対象ではないため出勤は以前とさほど変わらずしているが、バンドの練習やライブができないためその分時間が空く。

こうなってみるとそれだけでも相当自由な時間が現れてくる事がわかった。家にいる事が多くなると今まであまり意識する必要がなかった問題も浮上してくる。隣の部屋の生活音が意外と気になるのだ。

 

 

別に小さな音まで全部聞こえるわけではない。僕が1番気になるのはたまに聴こえるテレビの音で、その時かなりの確率で鳴り響いてくるのが福山雅治のライブ映像らしき音なのだ。恐らく壁にひっつけてテレビを設置しているのかもしれないが、そこそこの音量であの癖のある歌声が聴こえてくる。

 

僕は別に福山雅治が好きでも嫌いでもない。でもここまで聞こえるといくらたまにでもちょっときつい。ただそれだけでなく、なぜか笑えてしまう。

実は隣からたまに福山雅治が聞こえる事は以前からあって、聴こえてくるたびに(またか‥)と考えていた。

初めて福山雅治が隣から聞こえてきたのはたしか何年も前であるため、きっと隣人は生粋のましゃファンであり、ましゃロスを乗り越えた強者である事も確かだろう。(ちなみに隣人の性別は男性のようだが。)

何かを真っ直ぐに愛する事は素敵な事だし、一向に構わないが、誰かに迷惑をかけてしまった時点で全く素敵ではなくなる。隣人にまで愛を漏らさないでほしい。

 

この際福山雅治の曲を聞こえるように弾き語ったらどうなるのだろう。正直どうなるか興味があるが想像に留めておく。

 

外出自粛が長引きそうな事を考えると、隣のあんちゅわんとの戦いはまだ始まったばかりなのかもしれない。

 

尊敬と崇拝

尊敬と崇拝は全く別物だ。

僕は尊敬の念を抱くことはあるが、崇拝については永劫することはないだろう。

 

 

 

神様のように崇める存在(人間)は僕にとって存在しない。なぜなら心の中に「所詮人間は人間なのだから」という思いが常に存在しているからだ。

これはネガティブな意味で述べているわけではなく、ただ人間はその人間という範囲内で存在していて、大きな目で見ればあまりみんな変わらないという意味で述べている。そして大した存在でもないという意味も含んでいるかもしれない。

 

人間が存在している意味は何かと言われればそんなものはないと答える。しかし、どう足掻いてもないからこそ、汚くて美しい命を大切にして精一杯生きて足掻きまくる事が大切なのだ。

 

もちろん崇拝をする事が間違っているとは言わない。例えばお守りのようにその対象を胸に抱き続け、何かを成し遂げるのもいいだろう。ただ自分は自分で答えを見つけたい。間違っていても自分でつかんだものは何にも変えがたいものだと考えるからだ。

 

自分だけしか知らないものは価値がある。それは何かといえば自分として生きてきた時間を使って重ねてきた経験だ。

自分だけの経験をもとに答えを導き出せた時、それはどんなに先人の考えに似通っていようとも、たった一つの答えになるはずだ。

 

 

 

だから僕は崇拝しない。尊敬できることを探して、自分に必要ならばそれを取り入れていくだけなのだ。

泥だらけの坑夫

いつの間にか前の記事を書いてから時間が空いてしまった。現在、世間は殺伐としていて、鬱屈している。これ以上事態が悪くならない事を願いつつ、自分は気にしすぎずいつもの生活を続けていこう。(もちろん予防はしっかりする)

 

さて、最近の僕と言えば曲作りによく励んでいる。

以前は一月一曲程度が関の山だったが、去年の11月くらいからは月約4曲くらいのペースで曲を創ってきた。意外とやろうと思えばできるもので、ストックが増えてゆくのは満足感がある。

しかしながら自分の中から何か出せば、自分の中から何かが消耗されるのは確かだ。ガソリンを使って車が走るように、燃料が必要なのだ。

創作にとっての燃料は、自分の生活、その全てだ。

 

音楽を聴く事、映画を観る事は当たり前にそうだが、食べたり出かけたり、人と話したり、面倒な仕事をしたりする事も全てが燃料となる。

ただよいものを創るには良質な燃料が不可欠だ。良質な燃料は常に新鮮な体験や感情を求めていなければ手に入らないように思う。

 

今の僕は良質な燃料を求めて土を掘る泥だらけの坑夫のようだ。ただただ過酷なわけではなく、楽しい事が沢山ある労働だが。

その上人間は記憶ができるので、使った燃料も廃棄物になることなく自分の礎としてどっしり残ってくれる。自分の好きな物が増えていって本当にウキウキする。

 

今の自分には想像もできないものが生まれる事を夢見つつ、今日もせっせと土を掘るのだ。

どんなに掘り続けたって足りないくらいなのだから。

 

人間は多面体

人間は多面体だ。

つまりたくさんの面を持っているということだ。

家族といるとき、恋人いるとき、友達といるとき、職場にいるとき、独りでいるとき。

数え上げればきりがないほど面がある。

この多面体であるということを意識していない人は意外と多いのかもしれない。

 

所謂ギャップというものはある一面を見た人が違う面を目撃した時に感じるもので、色々な面がある事を考えれば実はギャップが存在する事は至極真っ当だ。

例えば殺人犯がニュースで報道されるときに、近所の人や元クラスメイトに話を聞いて「大人しくてそんな事やる人には見えなかった」とか言っているのをよく聞くが、上記の事を考えれば当たり前だ。むしろ殺人犯としての雰囲気を日頃から放っている殺人犯がどこにいるのだろうか(たまに日頃からヤバイ奴もいるだろう)。

 

全ての人が自分と面と向かって接している時とは違う面を無数に持っている。だから月みたいに絶対に見えない部分が、良い面も悪い面も含めて存在しているのではないか。自分以外のある他人の全てを理解しようなんて傲慢だ。理解しようとする気持ちはとても大事だが。

 

 

多面体だという意識があれば、人に寛容になって少しはやさしい人間になれるのかもしれない。まあ人間は人間らしく、時には気を使ったり、時には利己的になって周りが見えなくなったりして、山と谷を越えながら生きるのが1番だろうが。

2019年、総括。

2019年が終わる。

例年に比べて、気温が高めな年末な気がする。昨年の年の瀬にも一年を振り返る文章を書いていた。今年も少し振り返ってみるとしよう。

 

 

 何と言っても今年はThe Highwaysがバンドとして再稼動した年だ。昨年末あたりまで、ドラマーが抜けた状態でアコースティック巡業を半年くらい続けた。

その成果は大きく、バンドの音やバランスに多大な変化をもたらした。スリーピースのロックバンドとして、自分たちが様々な事においてどういうバランスで在るべきか、その答えを導き出していった一年だった。

 

4月からライブを本格的にスタートさせ、8月にシングル『This is fun?』のレコ発ライブを行った。

この音源はゆらゆら帝国とのタッグでも有名な中村宗一郎さんにレック、ミックス、マスタリング、全ての工程を担当して頂き、当時の我々にとって最高の作品となった。中村さんから教わったことは自分にとって非常に大きく、 音源を創るとはどういうことなのか、その全体を見渡す広い視野を教わったと思う。

これは言葉で教えてもらったわけではなく、感覚的に教わったような感じだった。今まで見えていなかった部分が見えるようになった気がした。レコ発に参加してもらったバンド、そして会場となった下北沢LIVEHOLICにも大きな感謝の想いがある。

 

その後はアコースティック編成での活動も並行しながら9月から新宿での路上ライブと毎月行うカバー企画を始めた。

路上ライブの効果は大きかった。というのもそれは人気が出たとかそういう話ではなく(耳を傾けてくれる人は増えたと思う)、自分たちのパフォーマンスにとってだ。

不特定多数の人に見てもらうことで、見えない殻が破れていった。バンドでのパフォーマンスが更に自分たちの理想に近づいていったのだ。

これは是非皆さんの目でライブに足を運んで確かめてほしい。

 

そしてカバー企画は日々の鍛錬に役立った。カバーをすることで自然に楽器を触る回数が増えるし、ハイウェイズを見ている皆さんにも我々がどんな音楽が好みかを伝えることができる。今後も続けていきたいと考えている。

 

 

 

 こうして瞬く間に1年が過ぎていった。濃密で早い速度で過ぎて行った1年だったが、自分には成長してきた確信がある。2020年はとにかく皆さんにハイウェイズを知らせたい。見せたい。

 自分の中にあるさらなる高いハードルを目指し、来年も自分の表現と向き合っていくつもりだ。楽しみながら真剣に。

 

 

最後に今年関わってくれた全ての人に感謝したい。そして2020年も宜しくお願い致します。

映画:JOKER

ジョーカーをみた。
久々に鑑賞中に身体がこわばる映画だった。
非常に個人的な、社会、他人への憎しみが社会情勢とうまく(逆に言えば不幸にも)噛み合った結果生まれた物語だ。

 

個人的な社会や他人への憎しみは、遺憾無く爆発されたまま物語は終わる。ただ僕はそれに何か気持ちの悪いもの、賞賛できない気持ちを抱えた。

なぜか考えてみると、主人公アーサーの残虐な行動の動機が、行き場のない、個人的な不幸から発生されたもの、つまり非常に利己的であり、その行動が最後まで裁かれなかったからかもしれない。殺された人は何の罪もない、結局は1人の人間の究極的エゴにより殺された。大衆はその行動を理由に時勢に沿って騒ぎ立てただけだ。アーサーに何か大きな目的があったわけではない。非常に冷たい言い方をすれば、アーサーは制御の利かない、客観性を失った、それこそただ狂っているだけ‬のかわいそうな人間にすぎない。

 

ただひとつ忘れてはいけないのが、舞台はゴッサムシティであり、ジョーカーはバットマンに出てくる架空の人物であるという点だ。
僕はバットマンをあまり知らない。ついこの映画を現実的に見すぎていた。
これはジョーカーというスーパーヴィランが生まれる経緯を描いた物語であり、それを忘れてはならない。

 

確かにマーベルやDC原作の他の映画と比べると(沢山見ているわけではないが)、非常に現実みがあり、コミック原作映画の範疇は超えていると思うが、あくまで架空の人物、ジョーカーの話である事は心に留めておくべきだ。

この事を忘れないようにすれば、アーサーが最後まで裁かれる描写がない事への違和感にある程度納得できる気はする。

 

映画全体の雰囲気が暗く、息をつかせない。登場する車や街の風景などはカッコよく、好きだった。役者の演技も当然素晴らしい。

そう、冷静にみればこの映画はエンターテイメント作品であり、自分と重ね合わせすぎる事は避けるべきだ。

誰もがジョーカーになりうる?ありえない。それこそ妄想と現実の境目を見失っているのでは?

 

映画は現実ではない事は誰もが知っているはずだ。