脳内百景

3ピースロックバンド"The Highways"のギターボーカル、徳永の脳内。

人間臭い旗を掲げて

最近はもう、いかに人間臭さを自然に残すかが重要だ。

 

 

作品も、私生活も。デジタル(という言い方がなんかもう古い気がする)ができる範囲が広くなっていくにつれ、人間だけが出来ることは狭まる気がする反面、浮き彫りになってくる。

僕は比較的昔のアニメーションが好きだが、アニメ界は2000年前後にデジタルに移行してから、特にテレビアニメは人間の温かみはなくなり始め、最近は何に面白みを見出してよいかわからない作品も少なくない。(あくまで個人的感想)

 

ロボットや人工知能が発達したらどこまで人間に近くなることができるのか。

人間が対抗できる術は、失敗とか、ブレとか、そういう油断みたいなところである気がしてならない。

そこまで再現できるロボットが生まれたらどうするの?という人がいるかもしれないが、それはいかに機械であっても、もう人間なんではなかろうか。

 

 

知識だって今はスマホで調べれば、相当マニアックな事だって大抵出てくる。知識の量とか、正確さとかで対抗したって絶対に勝ち目はない。(別に勝負ではないが)

 

最近の僕といえば、昔読んだ本を何度か読み返したり、好きな映画を何回もみたり、好きな音楽を繰り返し聴いたり。ここ数年、大量の知識を得ることより、ひとつの事を自分独自の視点で体に馴染ませることの方を重視するようになった。

もちろん新しい知識を得る事をやめたわけではない。それも非常に大事だから。

ただ同じ作品を体に馴染ませる事は、自分という木を、削り出して、硬い木の皮の下に実は存在していた形を浮き彫りにしてくれる。独自の視点が更に研ぎ澄まされたりする。

機械にはできない芸当だろう。

 

むしろ最近の人間は、均一化に近づいている気がして、個性を捨ててはいないだろうか。

私らしく生きようという論調が強くなっている気もするが、一方で何故か「個」が失われている気もしてしまうのだ。

 

僕は最後まで木の船で帆を張って、海を漂いたいと思っている。

周りの船がモーターを装着して、いや、飛行機となって、いや形をなくして瞬間移動ができるようになっても。

ただそれは、社会との繋がりを遮断するという意味ではない。普通にスマホをいじるし、サブスクで映画も音楽も観るし聴くのだ。社会と共存し、新しい事を取り入れながら人間臭い旗を掲げるのだ。

本:-豊饒の海-暁の寺

この本は、三島由紀夫が人生の終わりに書き残した長編小説、全4巻のうちの3巻だ。

 

 

内容が濃くなってゆくので先に言っておくと、僕は信じている宗教はなく、輪廻転生も信じていない。

 

 

 

今回はこれまで転生してきた主人公を見届けてきた本多が中心となって物語が展開される。

ここにきて、本多自身が押さえつけてきた欲望、変態性が花開いていく。

 

はっきりいって、三島由紀夫のこの後を考えると、物語とその行末を交えて考えないことは不可能だ。

三島はこの物語を書き上げた5か月後に割腹自殺(三島事件)をする。

 

その激烈な生命の燃焼を表した1巻、2巻と比べると3巻はやや落ち着いており、ジメジメとしている。

又、輪廻転生に対しての本多の考察(三島自身の考察といって過言ではないだろうが)、インドでの体験がページの3分の1くらいを占めており、起伏が大きくあるわけではない。

 

1巻、2巻と転生してきた魂は(魂といっていいのだろうか?)3巻でタイの姫、月光姫に転生する。やはりこれまで本多に関係があった人物の近いところに生を受けている。

 

本多は彼女に恋に似た感情を抱く。彼は60近く、月光姫は10代だが。

覗き等、まあこれまでの本多のイメージとは離れた行為が散見される。相当な変態オヤジ。

ただその変態性は本多(若しくは三島)がのめり込んでいた輪廻転生、唯識論に深く関わる部分がある事は確かだ。

 

自分が知見した瞬間月光姫は自分が求めた月光姫ではなくなる。本来は覗きさえ許されないが、自分の存在を認識していない月光姫を見ることで求めるものに近い月光姫を本多は感じていたのだろうか。

唯識論については自分も理解が完全にできているわけではない。ネットで調べたような浅い知識しか持っていないが、それをベースに今は思考するしかない。

始めは唯識論を追求すれば実体は無いことになり、虚無が訪れるように思ったが、どうやらそういう悲観的なものではないようだ。唯識論の先はただの虚無ではないらしい。

 

そもそも唯識論とは、全ての個人にとっての出来事は8種類の識から成り立ったものだという見解の事で、(詳しく知りたい方は検索をかけて欲しい)8種の識の根本たる無意識が阿頼耶識(あらやしき)というものなのだ。この阿頼耶識は自分の中の1番奥の無意識の部分で、個人の認識はここに始まり、世の中に実体は、幻のようなもので、ないとされる。(現知識では間違っている事も多いかも。あしからず。)所謂、「色即是空」の「空」の部分のようだ。

これが自分は正しいと思うか、間違っていると思うか、現段階では正直はっきり言うことはできない。

 

 

ただ、25歳になるあたりだったかもしれないが、生きる意味について特に深く考えたことがあった。それまでも度々考えることはあったが、その時は納得できるまで考えたかったのだ。

その時の結論は、生きる意味は、結局のところないというものだった。

 

しかし僕は生きようとしていた。なぜ生きようとするのか。もし生きる意味がないというなら、そのまま何もせず、野垂れ死ぬのが正解なのではないかとも考えた。

しかし僕は生きることしかできなかった。それしかできなかったのだ。ならば意味がないとしても、この生命があたかも意味があったと思うくらい、命を燃焼させるべきではないのかと考えた。意味がないからこそ、最大限に堪能しようと考えた。

そこから、覚悟なのか、ふに落ちたからなのか、あまりそういうことは考えなくなった。

 

 

なんだか似ている気もする。意味がない、ということを「空」と考えれば。

 

そもそも悟りの境地なんて存在するのだろうか。死後の世界と同じで誰も知り得ない境地に、どうやって至ったと証明できるのだろう。側から見ればおかしな事を言っている狂人と一緒なのではないか。

 

 

 

三島は輪廻転生、唯識論にのめり込み、その思想を追求していたようだ。上記したように唯識論の追求は、ある意味一般には理解できないという領域に足を踏み入れそうだ。本気でその先にある悟りを目指した場合、どうしてもこの現実の地に足をつけていられなくなる気がしてしまう。その恐怖を超えてこその悟りなのかもしれないが、それは本当に到るべき場所なのだろうか。

 

三島事件を起こした時の三島由紀夫を一般的感覚でみればどう考えても正気では無い。

様々な理由がつけられているが、この追求の先に辿り着いて起こした事件には違いないだろう。

本書は死をもってある意味、美というのか、世界というのか、それが完成させられるという風に考えている三島の思想の断片が所々に見られた。

三島は死をもって美を、人生を完成させようとしたのか、本当のところは本人にしかわからない。そもそも予測しようとするのは非常に野暮な事かもしれない。

ただ僕は、三島の思想や言動という仮面の裏にある、自分という物語、舞台を美しく完結させたいという願望、それを達成するためにどうしても必要だったのがこの事件という結末だった気がどうしてもしてしまうのだ。

本:豊饒の海-奔馬-

この本は、三島由紀夫が人生の終わりに書き残した長編小説、全4巻のうちの第2巻だ。

 

第2巻は第1巻の18年後が舞台。第1巻で壮絶に若さと命を燃やし、死へ向かった清顕は、第2巻で10代の若者、飯沼勲へ転生する。

当の本人は前世の記憶はなく、その事実に気がついているわけではないが清顕と行動を共にした本多(第2巻では38歳)はいくつかの要素をもって転生を確実なものと思うようになる。

 

 

ひとつ感心してしまうことは、本多という見届け人がいる事で今までのでき事を俯瞰して、落ち着いてみる事ができる事だ。第1巻はこの第2巻により、完璧な過去となる。誰しもが若い10代の頃を歳を取った後振り返ると、何故あんなに小さな事に固執していたのかとか、何故あんなにどうでもいい事を真剣にやっていたのかとか、思うことがあると思う。

その若い時に起きた実はばかばかしく、ただかけがえなく、人生の後のどの輝きとも違う輝きを、本多という見届け人を通して説明することができる。

なかなか、こういう物語はないだろう。輪廻転生といえば、手塚治虫火の鳥が浮かんでくるが、過去から現代、未来に向かってこの世界を命尽きる前に描きたいと、歳を重ねた時作家は思うのだろうか。

 

 

実際にあった事件を元にして書いている所があり、言ってしまえば思想的に右な話に(簡単に右左というのもどうなのか。)なるが、思想以前の問題で、物語としてかなりおもしろい。少年だけで結成されたグループ(後に大人もひとり参加するが)で財界の重要人物の暗殺を目論み、暗殺を決行する日までの、主人公、勲の心の動きや、本多の勲に対しての不思議な想い、周りの登場人物の関係も読んでいて全く飽きない。

 

最後の場面に向かっていく緊張感と読み終わった後、視線が文章から解き放たれた時初めて気がつく、胸の張り詰める感じ。物語として上質だ。

 

 

また改めて思うのは、三島由紀夫の文章の素晴らしさで、人によっては多少長々としていて読みにくいと感じるかもしれないが、その長い描写により、ひとつひとつの場面は今この世界でここでしか起こっていない、たったひとつ出来事へと昇華されていく。

本来どんなにつまらない日常でも、その日常の瞬間は他を探してもどこにもみつからない、唯一無二のものなのだという当たり前の事を、文章によって気づかせてくれるのが三島由紀夫の力なのかもしれない。

本:豊饒の海-春の雪-

この本は、三島由紀夫が人生の終わりに書き残した長編小説、全4巻のうちの第1巻だ。

 

 

この話は、松枝清顕と聡子の恋愛が中心であるが、決して美しい恋愛話とは言えない。

美しい点があるとすれば、若くて世間をしらず、利己的な、清顕の命のエネルギーの燃焼により放たれる生命の輝きだろう。

 

はっきりいって清顕は自分の事しか考えていない。聡子を愛する気持ちも、自分のいわば理想に使われているだけだ。

これをみて美しい恋愛だなどといっている人は、頭がお花畑すぎる気がする。

実際清顕の利己的行動により、聡子は心を殺され、出家をする。

この出家は家への罪の意識、清顕への想い、様々な重圧に耐えられなくなった聡子が生きていけるために残された、最後の道ではなかったか。

つまり死を選ばないための選択であると思う。

 


清顕は自分の理想のため、さも美しく見える生命の輝きを放ち死んでいった。

ただここで言いたいのは、死をもってして放つ生命の輝きは、これほど愚かでも美しく見えてしまうという事だ。

美しく見えてしまっている時点で、我々は清顕の生き方にまんまと魅せられてしまっているのかもしれない。

その生き方が間違っていたと断言できる権利は誰にもない。

日常短編シリーズ:変わり目

これはフィクションであり、ノンフィクションの話でもある。

 

 

 

黒い革靴の表面を車のライトが滑り抜けてゆく。

既に日は完全に落ちていて、街灯や信号の光が闇に浮き上がっている。

 

 

 

少し肌寒い。半袖のTシャツで出てきた事を間違っていたとは思わない。昼間は確かにTシャツで丁度良い気温だった。何か羽織ろうか考えたが、まだ早い感じがした。

それに久々に押し入れから出してみた薄いジーンズ生地の上着は少し埃っぽかった。クリーニングに出すべきだろうか。

 

ある日から急に気温は高度を下げ、ほんの数日前まで怒肩で歩いていた夏はどこかに身を潜めてしまったかのようだった。

 

 

 

僕は横断歩道を渡るため、信号が変わるのを待っている。

僕以外に信号が変わるのを待つ人は誰一人としていない。車が行き交い、横断歩道を渡った少し先に歩道橋の見える大きな交差点。さして特徴のない街路樹がなんの感情もなしに佇んでいる。

何故だか心が寂しい気がする。人の心は簡単に気候に弄ばれる。

秋がやってきている事を僕は感じているようだった。

体験は脳みそのシワに刻まれる

 

現在の世の中は、音楽だけでなく、映画等も含めてサブスクリプションが当たり前となりつつある。

システムとしては本当に便利で、さほど高くない定額を払えば観たいもの、聴きたいものを短時間で探し出し、おもしろくなければすぐに切り上げることができる。

僕たちが使える時間は限られていて(生きている時間には限りがあるので)、その限られた時間を有効に使うという意味では非常に意義があるといえる。しかし、その中で得るものもあれば失うものもある。

 

 

最近レコードプレーヤーを買い換えたため、レコードを聴く機会が自然と増えた。

僕はそれほど沢山コレクションをしているわけではないが、レコードを聴くのが好きだ。

 

レコードが並べられている棚から今聴きたい一枚を探し出し、バンドやアーティストの個性が打ち出された大きなジャケットの中から、電灯が反射した黒光りする円盤を取り出し、ターンテーブルの上に乗せて針を落とす。この間にサブスクでいったいどれだけの音源を探しだし、聴いては切り上げてを繰り返すことができるのだろう。

しかし聴くまでに時間がかかるからと言って、果たして時間を無駄にしていると言えるのだろうか。僕にはそうは思えないのだ。

 

体験をすると記憶に残る。その時間を使った体験は、自分だけの経験となって、脳みそのシワに刻まれる。

レコードを聴くためにする体験は、数多の人がしている音楽を聴くという経験を、この世で自分だけしかしていないかけがえのない、ドラマチックな経験に引き上げてしまう力があるのかもしれない。

 

少したいそうな言い方をしたが、これは音楽を聴く事だけではなく、他の様々なことにおいても同様に考える事ができるだろう。

テレビの旅行番組で見た世界の絶景より、実際に行った近所のスーパーで今夜の晩ご飯を選んだという体験のほうが、後の人生にとって余程有益かもしれない。

 

 

ただここまで書いておいてなんだが、僕はサブスクを否定しているわけではない。実際に便利だし、自分もよく使っているのだから。

やはり大事なのは、選択肢の中から自分に適した方法を良い塩梅で選びとる事なのだと思う。

 

 

 

一見無駄に見えるなんでもない体験は、後の自分の立派な礎の一部になるかもしれない。

だから無駄でどうでもいい体験は積極的にやるべきだ。いや、他人から見たらどう考えても無駄な事でも、自分にとって必要ならやるべきだと言った方がいいのだろうか。しかし、なんてこと言ってるから時間がいくらあっても足りない。

無駄な事こそ謳歌したい、今日この頃なのだ。