脳内百景

3ピースロックバンド"The Highways"のギターボーカル、徳永の脳内。

ノスタルジーの正体は?

早すぎる夏が到来した、と言って異論を唱える人はいないだろう。梅雨入りも発表され、季節は次から次へと移り変わっていく。

 

最近刑事物語という映画を観た。武田鉄矢主演で1982年に公開された。5まであるシリーズものだが、今回は1だけ視聴。感想を述べようと思えば様々あるのだが、今回はこれが主題ではないので詳しい感想はまたいつか。

僕が今回話したい事はノスタルジーについてだ。

 

僕は変な話かもしれないが、人間の飾り気のない地に足のついた生活というのが好きだ。例えSF作品でも実写でもアニメでもその世界に住む人間(生き物)の生活が丁寧に描写されており、それが丁寧なだけでなく、存在しているリアルが感じられる場合、その作品に対してはかなり好感をもつ。

刑事物語は嘘じゃないものが存在する(単に現実的という意味ではない)魅力があり、観ていて暖かく、切ない気持ちにもなった。

特に昔ながらの日本、というより昭和の日本というべきか、その風景や人物の描かれ方は素敵だった。しかしここで不思議な感情が湧き上がった事を説明せねばならない。僕はその映像を観て、ノスタルジーのようなのものを感じたのだ。

僕は平成生まれだ。昭和を体験していないのになぜノスタルジーを感じるのだろう。

 

一つの可能性は自分が子供の頃からテレビや雑誌などで上記のような風景が、元から「懐かしいもの」として紹介されていたから、というものである。

つまり、自分が子供の頃に実体験したこと(誰かと遊んだこと、出かけたこと)を思い出す懐かしさではなく、懐かしいものとして紹介されていた昭和を子供の頃から見てきたから、大人になった今その映像自体が懐かしいものとして記憶されているからではないか、というものだ。

なんだか非常に面倒な文章だ。書いている自分も嫌になってくる。

しかし一つ言えることは昭和が急になくなったわけではないということだ。つまり自分が非常に小さい頃はまだまだ昭和の風景が残っていたはずである。特に都会ほど時の流れが早くない田舎で幼少期を過ごした僕にとって、おかしなことではない気もする。

 

 ただノスタルジーという感情には面白い側面がある。自分が幼少期に体験したことない出来事や、風景にもこの感情を抱くことがあるところだ。

まだ日本ならわかるが、海外の風景に対してノスタルジーに似た感情を抱くことだってある。これは一体どういうことなのだろう。

僕がこの事柄を考える時いつも浮かんでくるのはお祭り(特に所謂夏祭り)だ。

夏祭りに行くと非常に強くノスタルジーを感じる。これは幼少期から思い出が積み重なっている僕にとっては当たり前のことだ。しかしふと思うことは、海外から来た方はどんな気持ちになるのだろう、ということだ。これは予感なのだが、海外の方もノスタルジーに似た感情を抱くような気がする。

もちろん説明すれば色々できそうだ。海外にも似たようにお祭りがあるからとか。しかし果たしてそれは本当に実体験の記憶から生まれた感情なのだろうか?

 

シンクロニシティなんて言葉があったりする。この考え方は非常に面白いが、僕は根拠のないことを盲信するのは嫌いだし、あまりに不明瞭なことが多すぎる。だから不思議な、答えのない感情としてノスタルジーを処理することとする。

 たまには昔を懐かしむこともいいものだと思う。戻らない時間について考えることで、今この瞬間の大事さに気が付いたりするもんだ。

 

 

面倒な、答えのない文章に付き合っていただいた方々、ありがとう。夏祭りに一緒に行ってビールとイカ焼きを奢ってあげたいくらいだよ。