脳内百景

3ピースロックバンド"The Highways"のギターボーカル、徳永の脳内。

ミロコマチコさんの絵について

今回はミロコマチコさんという画家、絵本作家について話したい。

 

僕がミロコさんの絵を初めて真正面から体験したのは、去年の春くらいだと思う。世田谷文学館という施設で企画展があり、それを観に行ったのだ。

以前から家がそう遠くない事もあり、世田谷文学館には気になる展示があれば通っていた。その時もチラシをみて "おもしろそうだな "と思い、いつもの通り何の気なしにフラッと立ち寄ったのだ。

 

そこで絵をみてまあ驚いた、というか感動した。視線が絵に釘付けになって、動けなくなった。絵から何かパワーが出てきているかのようでただただ圧倒されたのだ。

はっきりいってこれは実際に観てみないと分からない。あらゆるものは自分で体験しないと本当の良さは分からない。

 

僕が一番圧倒された絵は、壁一面にデカデカと飾られていたヘラジカの絵だ。

基本的に何でもデカイものはまず他の情報を抜きにしても単に大きさという項目において圧倒される。ナイアガラの滝とか樹齢が長い大木のような自然がつくる大きさもあるが、日本各地にある名城とか、大仏、超高層ビルのような人工物でも同じだ。規格外の大きさになると人知を超えたなにかを感じてしまうからだろうか。

恐らく皆さんが想像している数倍、ヘラジカの絵はデカイ。大きな枠いっぱいに力強い線で描かれたその動物を観た時、" なんだこれは‥"という言葉が口から思わず漏れでるようなすさまじさを持った絵だった。自然の大きさがそのまま押し寄せて来る畏れもあった。

 

ミロコさんの絵は動物や生き物を扱ったものが多い。もちろんかわいい部分もあるけれど、僕はそれと同居する凄みや不可思議さに魅力を覚える。未知の遺跡で見つけた壁画のような神秘が隠れていると思う。

 

 

 

 

もちろん帰りに画集や絵本を買った。絵を観たその時の気持ちを忘れたくなかったからだ。

きっと自分が知らないだけで世の中には心を打つ作品を創る人がたくさん隠れているのだろう。そう信じたい。この記事を読んだ人は是非一度ミロコさんの絵を観て欲しいものだ。

2018年、総括。

年の瀬も年の瀬だ。

今外にいる。昨日よりは寒さが和らいでいるような気がする。風がない分空気をしっかり感じられる。締まっているけど、どこか温もりを感じる。家の中の、年末年始特有の温もりある雰囲気が、外に漏れ出しているのかもしれない。

 

2018年は僕にとって良い年だった。これは胸を張って言える。8月にドラムの山田が脱退し、The Highwaysが僕とだいきの2人になった。周りから見たらどうか分からないが、その時僕の心は不安を感じていなかった。

何故なら自分のやるべき事を自分がきちんとこなしていたからだ。そしてなんとなく、The Highwaysに自信と可能性を感じていたからだ。

アコースティック編成で、だいきと2人で丸4ヶ月ライブをこなしてきた。バンド編成では分からないことが沢山見えてきて、本当に良い修行期間であった。

 

今まで幾度もメンバーチェンジがあり、訳もわからずもがいた事もあった。自分にしたら長い期間(まだまだ人生においてはひよっこだが)を経て今僕は自分の表現ができている。嬉しく思う。

ただこのままでは気が収まらない。満足もしない。もっと自分の音楽を届けたい。更におもしろい、良い音楽をつくりたい。

それには当然みなさんの応援が不可欠なのだ。良い音楽をやることを、The Highwaysは約束する。だからその代わりと言ってはなんだが、是非応援をして頂きたい。2019年はThe Highwaysが高く舞い上がるだろう。

 

見届けて欲しい。よろしくお願い致します。

珈琲と僕

珈琲は僕にとって生活必需品と言っても過言ではない程、日常生活にあって当たり前の物になっているかもしれない。

朝起きて出掛ける前(だが大抵出掛ける直前に目を覚ますため、優雅なコーヒータイムは夢と消える)、移動の合間、余暇の時間、ライブ前、眠る前、様々な状況下を珈琲と共に過ごしている。

珈琲を飲む時間を作る事の最大の利点は精神を安定させる事にある気がする。あの香ばしい香りとやさしい苦味が心をリラックスさせる。次の行動を起こすためのスイッチにもなったりする。

 

 

思い返せば珈琲を飲んでいた1番古い記憶は中学生くらいに遡る気がする。朝学校に行く前に、インスタントコーヒーを親が淹れてくれていた。

当時は自分の意思ではない、出されたものをなんとなく飲んでいただけだと思う。

それが今や生活に欠かせないものになっている。習慣というのは怖いものだ。こうして立派な珈琲中毒患者ができあがったのだ。

 

 

なんにせよ珈琲が好きなのだ。いや、もはや好きとかでは片付けられないかもしれない。長年付き合った男女のように、当たり前すぎて大切さを忘れているかもしれない。

何事も当たり前になりすぎるのは良くない。最近また喫茶店に通う機会も増えてきたので、改めて珈琲の好きなトコロを10個くらい挙げてみても良いのかもしれない。この場を借りてお礼も言っておこう。いつもありがとう、珈琲さん。

世の中は曖昧な謎だらけ

寒さが増してきて、季節が秋から冬へと変わろうとしている。

季節の変り目には風邪を引きやすいとよく言う。自分もこの文句はよく使うし、最近も誰かとそんな話をしたばかりのような気がする。ただよく考えると何故季節の変わり目だから風邪をひきやすいかを完璧に説明するのは意外と難しい。

 

こういう、なんとなく使っている言葉やものは世の中に沢山ある気がする。世の中は小さな謎で満ち溢れているんじゃないか。

もちろんそういう言葉を使う事をやめたほうが良いなんて思わない。いちいちそこまで頭を回転させていたら疲れてしまうし、大抵こう言う類の言葉を使っているときは大した意味は含まれていない事が多い。会話を円滑に進めるための潤滑油みたいなものだったりする。

 

ただ僕はそういうなんとなくが増えすぎてしまう事は少し怖い事だと思う。

 

なんとなく蔓延る謎に疑問を持つ事を忘れると、自分というものが薄れていく気がする。

 

人々の意見や、物事に対しての見解は、白か黒の2択ではない。その間に無限のグラデーションが広がっていて、無限の答えがあるものだ。その無限の中のたった一つが自分の答えなのだ。

 

最近はSNSで簡単に他人や自分の考えをシェアできる。たくさんの共感を得る意見や言葉が確かにある。ただ僕はどうしても共感した他人の考えをシェアしている人々が、1から100までその考えに同意しているとは到底思えない。リツイートの数やいいねの数に流されて、なんとなく意見を決定してしまって自分の本当の答えを見失っている人も多い気がする。

僕は自分だけの言葉で喋りたい。他人の言葉をまとって、自分の心がわからなくなりたくはない。

 

 

自分にとっての世の中の曖昧な謎を増やしすぎたくない。いつも当たり前を疑っていたい。疲れない程度に。

漫画:人造人間キカイダー

今回は石ノ森章太郎が描いた人造人間キカイダーについて書く。多少ネタバレを含むので、読む予定がある方は自己責任で。

特撮作品としてのキカイダーの方が世間一般的には有名なのかもしれないが、今回はあくまで漫画版原作について書く。

 

 

まず興味を引くのがキカイダーのデザインだ。特徴的で、奇妙で、個人的には好きだが、はっきり言ってかっこよくてスタリッシュなものではない。何故こんなにも奇妙なデザインであるのか。その理由は漫画に明記されている。”良い心”と”悪い心”の悩み。2つの心の葛藤が変身すると形として露出してしまう、ということらしい。

そもそもキカイダーたち人造人間やロボットは自分たちの意思で動くことを許されていない。本来は人間の言うことを聞く機械として造られており、キカイダーはその中でも特殊な存在なのだ。

他の人造人間やロボットと違う点は”良心回路”が組み込まれているか否かにある。この良心回路というものが悪い事への抵抗を産み、悪事を働くことを抑える働きをしている。

ただ、キカイダーの持つ良心回路は完璧な完成を待たずして使用された。つまり不完全なのだ。そこにこの物語のキモがある。

 

 

上記した”良い心”と”悪い心”の葛藤。これがその不完全な良心回路から産まれるのだ。

悪の親玉、ギル博士の発する笛の音によって、不完全な良心回路は効力を失い、キカイダーは悪事を働いてしまう。

そんな不完全な自分に嫌気がさし、悩む…まるで人間である。

キカイダーは機械であるはずだが、非常に人間らしいのだ。女性に不完全な変身姿を見られたくなくて意地でも変身しなかったり、自分の醜い姿を見て落ち込んだり。

キカイダーを通して見えるのは、結局人間だ。

 

 

石黒浩という方をご存知だろうか。アンドロイド研究の世界的権威であり、マツコデラックスそっくりのアンドロイド、”マツコロイド”を作った人として有名かもしれない。その人がアンドロイドの研究を進める理由が何かといえば、”人って何かを知りたいから”らしい。人間に近いものを作って研究することで、人間とは何かを見つめているのだ。

 

 

人造人間キカイダーという作品は、”人間とは何か”を問いかけている作品に違いない。

キカイダーは最後に良心回路と反対の性質を持った”服従回路”を組み込まれてしまう。彼を捉えた悪の組織が言うことを聞くただのロボットにしようとしたのだ。

しかし結果的にキカイダーは”良心回路”と”服従回路”をどちらも持つことで人間に近い存在となる。旅の途中で出会った人造人間の兄弟たちと悪の親玉を殺し、世界を救うことに成功はするのだが、彼の表情はどこか寂しげである。

キカイダーの物語にはモチーフとしてキノピオがよく出てくるのだが、1番最後のページは”ピノキオは人間になってほんとうに幸せになれたのだろうか…?”という言葉で締めくくられる。きっと読んだ人それぞれに考えるところがあるだろう。

 

 

正直言って突き詰めればツッコミどころも多い作品なのだが、キャラクターのデザイン、普遍的なテーマも非常に重みがあって読み応えのある作品であった。

後続の数々の作品に影響を与えたであろう名作だと思う。子供の頃読んでいたら、もっと忘れられない作品になっていたかもしれない。

真夏のコインランドリー

先日Tシャツを買った。

味のあるプリントが気に入ってネットで注文し、ワクワクしながら配達されるのを待っていたのだが、いざ届いたら少しだけサイズが大きい。これ以上小さいサイズはないため、なんとか縮める方法はないかとネットで調べた。

すると熱湯につけた後乾燥機にかけると少し縮むという記事を見つけたので早速試してみることにした。

まずは鍋で湯を沸かす。しばらくしてグツグツと音を立て始めたので、そこに新品のTシャツを入れる。あまり鍋が大きくなく、Tシャツが苦しそうだが少しの辛抱である。

その後少し冷まして手で絞った後、乾燥機にかける。もちろん乾燥機は家にないため、コインランドリーへ向かった。

 

まだしっかり水分を含んだTシャツを持って、太陽がギラギラ照りつけるいかにも真夏らしい天気の中約10分程歩く。汗が滲んできた頃コインランドリーに到着した。

六畳または七畳くらいの狭い空間に幾つかの洗濯機と乾燥機。なぜかノスタルジーを感じる。こんな時感じるノスタルジーはどこから来るのだろう。子供の頃よく使ったわけでもない。ただ何故だかわからないが、その時僕は確かに日本の夏を感じていた。

乾燥機に歩み寄り、その中に丁寧にTシャツを寝かせる。どうせくるくる回るので意味はないのだが。

約1時間分のお金を投入して乾燥をスタートさせた。暑いけど帰るのも面倒なので本を読みながら待機する。

 

 

『乾燥が終了しました。』

その音声が聞こえて本の世界から帰ってくる。蓋を開けてTシャツを取り出してみるとなかなかいい感じで縮んでいそうである。

コインランドリーに向かうときは感じなかった心地よい風を感じながら、さっきより軽い足取りで帰宅する。相変わらず太陽はギラギラしていた。汗が滲んだ。

 

家についてTシャツを着てみると、なかなか良い大きさまで縮んでいた。

素直に嬉しかった。真夏の何気ない1日であった。

際限のないデジタル化

この間ちらっと新聞を見る機会があった。

気になったのはメインの記事ではなく、下部にある広告欄。絵本の広告が載っていた。

「デジタルではなく、手元に残しておきたいと思える絵本です」とかそんな感じのことが書いてあったと思う。

もちろん今や電子書籍は一般化しているし、音楽ならCD、その他の分野でも物体が消えていく傾向にあるのは承知していたつもりだったが、絵本も電子書籍化されているというのは何故か頭になくて驚いた。とうとう絵本もかと思ってしまった。

デジタル化、形をなくす事、これは本当に際限がない。端末も必要とせず、頭の中に直接文字を出現させたり音楽を流したりなんて事も別に想像に易い。遠い未来の話でもなさそうだ。 

 

 

 目の前にコップがある。これを読んでいるあなたも、コップを取ろうとして誤って倒してしまい、中にある冷たい液体を机の上にぶちまけた事があるだろう。脳で思考して浮かんだイメージ通りに体は意外と動かない。イメージと実際の行動の差を全て埋めることは実体がある以上は難しい。 

つまりは媒体が間に挟まれば挟まるほど、エネルギーも使うし、変化が生まれてしまう。伝言ゲームなんかもそうだ。100人が伝言ゲームをしたら、最後の人はどれだけお題から離れた言葉を口にするだろう。

 

デジタル化することは無駄なエネルギー消費をなくし、エラーを極力減らすことにつながる。効率もとっても良いし、画一化はされていくだろうが、所謂「人間らしさ」とか、「個性」とかいうものはそのエラーから生まれてくるものではないか。

恐らく様々なことが画一化される方向に世界は動いていると思うが、それは良いことなのだろうか。どんなにそれが進んだ社会なのだとしても、なんだか寂しい気がしてしまう。

結局僕は人間のエラーを愛している。間違いを犯すことができる間はまだまだ成長ができるってことかもね。