珈琲と僕
珈琲は僕にとって生活必需品と言っても過言ではない程、日常生活にあって当たり前の物になっているかもしれない。
朝起きて出掛ける前(だが大抵出掛ける直前に目を覚ますため、優雅なコーヒータイムは夢と消える)、移動の合間、余暇の時間、ライブ前、眠る前、様々な状況下を珈琲と共に過ごしている。
珈琲を飲む時間を作る事の最大の利点は精神を安定させる事にある気がする。あの香ばしい香りとやさしい苦味が心をリラックスさせる。次の行動を起こすためのスイッチにもなったりする。
思い返せば珈琲を飲んでいた1番古い記憶は中学生くらいに遡る気がする。朝学校に行く前に、インスタントコーヒーを親が淹れてくれていた。
当時は自分の意思ではない、出されたものをなんとなく飲んでいただけだと思う。
それが今や生活に欠かせないものになっている。習慣というのは怖いものだ。こうして立派な珈琲中毒患者ができあがったのだ。
なんにせよ珈琲が好きなのだ。いや、もはや好きとかでは片付けられないかもしれない。長年付き合った男女のように、当たり前すぎて大切さを忘れているかもしれない。
何事も当たり前になりすぎるのは良くない。最近また喫茶店に通う機会も増えてきたので、改めて珈琲の好きなトコロを10個くらい挙げてみても良いのかもしれない。この場を借りてお礼も言っておこう。いつもありがとう、珈琲さん。
世の中は曖昧な謎だらけ
寒さが増してきて、季節が秋から冬へと変わろうとしている。
季節の変り目には風邪を引きやすいとよく言う。自分もこの文句はよく使うし、最近も誰かとそんな話をしたばかりのような気がする。ただよく考えると何故季節の変わり目だから風邪をひきやすいかを完璧に説明するのは意外と難しい。
こういう、なんとなく使っている言葉やものは世の中に沢山ある気がする。世の中は小さな謎で満ち溢れているんじゃないか。
もちろんそういう言葉を使う事をやめたほうが良いなんて思わない。いちいちそこまで頭を回転させていたら疲れてしまうし、大抵こう言う類の言葉を使っているときは大した意味は含まれていない事が多い。会話を円滑に進めるための潤滑油みたいなものだったりする。
ただ僕はそういうなんとなくが増えすぎてしまう事は少し怖い事だと思う。
なんとなく蔓延る謎に疑問を持つ事を忘れると、自分というものが薄れていく気がする。
人々の意見や、物事に対しての見解は、白か黒の2択ではない。その間に無限のグラデーションが広がっていて、無限の答えがあるものだ。その無限の中のたった一つが自分の答えなのだ。
最近はSNSで簡単に他人や自分の考えをシェアできる。たくさんの共感を得る意見や言葉が確かにある。ただ僕はどうしても共感した他人の考えをシェアしている人々が、1から100までその考えに同意しているとは到底思えない。リツイートの数やいいねの数に流されて、なんとなく意見を決定してしまって自分の本当の答えを見失っている人も多い気がする。
僕は自分だけの言葉で喋りたい。他人の言葉をまとって、自分の心がわからなくなりたくはない。
自分にとっての世の中の曖昧な謎を増やしすぎたくない。いつも当たり前を疑っていたい。疲れない程度に。
漫画:人造人間キカイダー
今回は石ノ森章太郎が描いた人造人間キカイダーについて書く。多少ネタバレを含むので、読む予定がある方は自己責任で。
特撮作品としてのキカイダーの方が世間一般的には有名なのかもしれないが、今回はあくまで漫画版原作について書く。
まず興味を引くのがキカイダーのデザインだ。特徴的で、奇妙で、個人的には好きだが、はっきり言ってかっこよくてスタリッシュなものではない。何故こんなにも奇妙なデザインであるのか。その理由は漫画に明記されている。”良い心”と”悪い心”の悩み。2つの心の葛藤が変身すると形として露出してしまう、ということらしい。
そもそもキカイダーたち人造人間やロボットは自分たちの意思で動くことを許されていない。本来は人間の言うことを聞く機械として造られており、キカイダーはその中でも特殊な存在なのだ。
他の人造人間やロボットと違う点は”良心回路”が組み込まれているか否かにある。この良心回路というものが悪い事への抵抗を産み、悪事を働くことを抑える働きをしている。
ただ、キカイダーの持つ良心回路は完璧な完成を待たずして使用された。つまり不完全なのだ。そこにこの物語のキモがある。
上記した”良い心”と”悪い心”の葛藤。これがその不完全な良心回路から産まれるのだ。
悪の親玉、ギル博士の発する笛の音によって、不完全な良心回路は効力を失い、キカイダーは悪事を働いてしまう。
そんな不完全な自分に嫌気がさし、悩む…まるで人間である。
キカイダーは機械であるはずだが、非常に人間らしいのだ。女性に不完全な変身姿を見られたくなくて意地でも変身しなかったり、自分の醜い姿を見て落ち込んだり。
キカイダーを通して見えるのは、結局人間だ。
石黒浩という方をご存知だろうか。アンドロイド研究の世界的権威であり、マツコデラックスそっくりのアンドロイド、”マツコロイド”を作った人として有名かもしれない。その人がアンドロイドの研究を進める理由が何かといえば、”人って何かを知りたいから”らしい。人間に近いものを作って研究することで、人間とは何かを見つめているのだ。
人造人間キカイダーという作品は、”人間とは何か”を問いかけている作品に違いない。
キカイダーは最後に良心回路と反対の性質を持った”服従回路”を組み込まれてしまう。彼を捉えた悪の組織が言うことを聞くただのロボットにしようとしたのだ。
しかし結果的にキカイダーは”良心回路”と”服従回路”をどちらも持つことで人間に近い存在となる。旅の途中で出会った人造人間の兄弟たちと悪の親玉を殺し、世界を救うことに成功はするのだが、彼の表情はどこか寂しげである。
キカイダーの物語にはモチーフとしてキノピオがよく出てくるのだが、1番最後のページは”ピノキオは人間になってほんとうに幸せになれたのだろうか…?”という言葉で締めくくられる。きっと読んだ人それぞれに考えるところがあるだろう。
正直言って突き詰めればツッコミどころも多い作品なのだが、キャラクターのデザイン、普遍的なテーマも非常に重みがあって読み応えのある作品であった。
後続の数々の作品に影響を与えたであろう名作だと思う。子供の頃読んでいたら、もっと忘れられない作品になっていたかもしれない。
真夏のコインランドリー
先日Tシャツを買った。
味のあるプリントが気に入ってネットで注文し、ワクワクしながら配達されるのを待っていたのだが、いざ届いたら少しだけサイズが大きい。これ以上小さいサイズはないため、なんとか縮める方法はないかとネットで調べた。
すると熱湯につけた後乾燥機にかけると少し縮むという記事を見つけたので早速試してみることにした。
まずは鍋で湯を沸かす。しばらくしてグツグツと音を立て始めたので、そこに新品のTシャツを入れる。あまり鍋が大きくなく、Tシャツが苦しそうだが少しの辛抱である。
その後少し冷まして手で絞った後、乾燥機にかける。もちろん乾燥機は家にないため、コインランドリーへ向かった。
まだしっかり水分を含んだTシャツを持って、太陽がギラギラ照りつけるいかにも真夏らしい天気の中約10分程歩く。汗が滲んできた頃コインランドリーに到着した。
六畳または七畳くらいの狭い空間に幾つかの洗濯機と乾燥機。なぜかノスタルジーを感じる。こんな時感じるノスタルジーはどこから来るのだろう。子供の頃よく使ったわけでもない。ただ何故だかわからないが、その時僕は確かに日本の夏を感じていた。
乾燥機に歩み寄り、その中に丁寧にTシャツを寝かせる。どうせくるくる回るので意味はないのだが。
約1時間分のお金を投入して乾燥をスタートさせた。暑いけど帰るのも面倒なので本を読みながら待機する。
『乾燥が終了しました。』
その音声が聞こえて本の世界から帰ってくる。蓋を開けてTシャツを取り出してみるとなかなかいい感じで縮んでいそうである。
コインランドリーに向かうときは感じなかった心地よい風を感じながら、さっきより軽い足取りで帰宅する。相変わらず太陽はギラギラしていた。汗が滲んだ。
家についてTシャツを着てみると、なかなか良い大きさまで縮んでいた。
素直に嬉しかった。真夏の何気ない1日であった。
際限のないデジタル化
この間ちらっと新聞を見る機会があった。
気になったのはメインの記事ではなく、下部にある広告欄。絵本の広告が載っていた。
「デジタルではなく、手元に残しておきたいと思える絵本です」とかそんな感じのことが書いてあったと思う。
もちろん今や電子書籍は一般化しているし、音楽ならCD、その他の分野でも物体が消えていく傾向にあるのは承知していたつもりだったが、絵本も電子書籍化されているというのは何故か頭になくて驚いた。とうとう絵本もかと思ってしまった。
デジタル化、形をなくす事、これは本当に際限がない。端末も必要とせず、頭の中に直接文字を出現させたり音楽を流したりなんて事も別に想像に易い。遠い未来の話でもなさそうだ。
目の前にコップがある。これを読んでいるあなたも、コップを取ろうとして誤って倒してしまい、中にある冷たい液体を机の上にぶちまけた事があるだろう。脳で思考して浮かんだイメージ通りに体は意外と動かない。イメージと実際の行動の差を全て埋めることは実体がある以上は難しい。
つまりは媒体が間に挟まれば挟まるほど、エネルギーも使うし、変化が生まれてしまう。伝言ゲームなんかもそうだ。100人が伝言ゲームをしたら、最後の人はどれだけお題から離れた言葉を口にするだろう。
デジタル化することは無駄なエネルギー消費をなくし、エラーを極力減らすことにつながる。効率もとっても良いし、画一化はされていくだろうが、所謂「人間らしさ」とか、「個性」とかいうものはそのエラーから生まれてくるものではないか。
恐らく様々なことが画一化される方向に世界は動いていると思うが、それは良いことなのだろうか。どんなにそれが進んだ社会なのだとしても、なんだか寂しい気がしてしまう。
結局僕は人間のエラーを愛している。間違いを犯すことができる間はまだまだ成長ができるってことかもね。
本:長距離走者の孤独
今回は本について書いてみる。
イギリスの作家、アランシリトー作の長距離ランナーの孤独という本である。この本はいつも弾き語りをやっている下北沢ARTISTのコニシさんから借りたものである。
この本に興味を持つきっかけというのがそのコニシさんとの会話であった。僕はThe Jamというバンドが好きなのだが、そのフロントマンであるポールウェラーがこの本が好きで持ち歩いていたらしいという話を聞いたのであった。お店にたまたま置いてあり、ライブが終わった後に借りていつものようにウイスキーで酔ったグラグラした景色の中うちに持ち帰った。
短編集の形を成しているこの本は8つの短編から構成されている。全編を通して漂う空気は決して明るいものではない。戦争の残り香と予感がある、貧しくていつも曇っているかのようなどんよりした空気。みんな生活をすることで精一杯だ。ただ不思議とジメジメしたものはそれほど感じない。それは文章の、多少粗野な言い回し(訳されているが)、そして登場人物の皮肉の効いたさっぱりした行動や思考によるものなのだろう。
人は誰しもが違う感覚を持っていて、100人いれば100通りの気持ちがあり考え方がある。(だからみんな違ってみんないいんだ!とか人間賛歌みたいなことはあまり好かないのだが。)だからどんなに似ていても、どこかが違うもんである。心に響く歌や絵や小説は、その登場人物が、つまりは遡れば製作した本人が、そのたった一つの感性を外に出せたかどうかで素晴らしさは変わってくる。
この本に出てくる登場人物は、皆たった一人の人間である。だから面白いのである。
どの話も結末は明快でなくどこか胸に儚さが残る。ただそこには人間の生活の中にあるやりきれない感情がうまく表現してあって、そんな個人ではどうする事もできないようなフラストレーションをいつも胸に秘めるためにも、ポールウェラーはこの本を持ち歩いていたのかななんて思う。大きなフラストレーションは善くも悪くも莫大なエネルギー源となるのだから。
靴磨きにハマる。
最近靴磨きにハマっている。
革靴を履く事が多いのでずっと始めたいとは思っていたが、とうとう靴磨きセットなるものを買い最近時間がある時に靴を磨いている。
いつも世話になっている靴が綺麗になっていくのはなんとも気持ちが良くて、不思議と気持ちまでスッキリするもんだ。
何にもやる気が起きない時こそ靴磨きをする絶好のタイミングで、靴を磨く事をきっかけに行動のエンジンがブルルンと稼動して、その後の活動が充実したりする。
磨いた靴には太陽の光がピカピカ反射して、外に出て行こうと誘ってくれる。
まだまだ始めたばかりではあるけど、自分の持ち物を自分で手入れする充実感と喜びを知った僕であった。